追悼:黒木登志夫先生

大学院時代の指導教官である黒木登志夫先生が、8月28日に急逝された。先日、「黒木先生を偲ぶ会」があり、改めて先生の遺徳に触れてきた。

思えば医学部6年生の頃、進路を決めかねていた時に、黒木先生の『がん細胞の誕生』という本に出会った。その本を読み、がん研究をしたいと強く思うようになり、夏休みに東京大学医科学研究所の黒木先生の研究室を訪ねた日のことを、今でも鮮明に覚えている。こちらは一介の医学部生で、相手は東大の教授である。こちこちに緊張しながら訪問したが、黒木先生はとてもにこやかな方で、ざっくばらんに研究の内容や大学院受験のことなどをお話してくださった。その後、無事に大学院試験に合格し、翌年4月から研究を開始したが、最初の1年間は何をやってもうまくいかず、鳴かず飛ばずの日々が続いた。

黒木先生の研究室では、「がんの90%以上は上皮組織に由来する」という事実に基づき、皮膚を用いて研究を進めていた。当時、神戸大学の西塚泰美先生が発見し、世界的に注目されていた蛋白質リン酸化酵素、プロテインキナーゼC(PKC)が発がんプロモーションに関わることが報告され、がん研究の大きなトピックとなっていた。発がんプロモーションの実験にはマウスの皮膚がよく用いられていたため、マウス皮膚に発現するPKCの同定が、新たな私の研究テーマとなった。

このプロジェクトを行うにあたり、PKC遺伝子を世界で初めて単離し、PKC分子が複数存在することを明らかにしていた大野茂男先生(横浜市立大学名誉教授)の研究室に派遣していただいた。それまでの1年間まったく結果が出なかったこともあり、当時最先端であった遺伝子クローニングの技術を学べるということで、無我夢中で朝から晩まで、土日もなく研究に打ち込んだことを思い出す。その甲斐あって、新しいPKC分子種、PKCη(イータ)とPKCθ(シータ)を世界に先駆けて発見することができ、これが学位論文となった。この成果を黒木先生はとても喜んでくださり、お祝としてサイン入りのご著書をくださった。その後、私は思うところがあり、留学を機にPKCとがん研究から一時離れてしまったが、もしあのまま研究を続けていたらどうなっていただろうかと、今でも折に触れて思うことがある。

東大を定年退職された後、昭和大学を経て、黒木先生は岐阜大学学長に就任された。大学運営についてはご本人曰く、「全くの素人だった」そうだが、そこでも持ち前のアイデアを生かし、数々の改革を行われたと伺った。その時の苦労、奮闘を一冊の本(『落下傘学長奮闘記』、中公新書ラクレ)にまとめてしまったのも、文才に恵まれた黒木先生ならではであった。

学長退職後も黒木先生の知的好奇心はとどまるところを知らず、iPS細胞や研究不正についての本を上梓され、サイエンスライターとしての才能も遺憾なく発揮されていた。コロナウイルス感染症が世界中の問題になっていた時は、当時すでに80歳を超えられていたが、定期的に世界の感染状況を解析したレポートを送ってくださり、その量と精緻な分析には舌を巻いたものだった。この時のレポートを元に、コロナウイルスに関する知識、各国の対応、治療法開発の状況など膨大な情報をわかりやすくまとめられた本(『新型コロナの科学』中公新書)は、当時の医局員全員に配布させていただいた。

黒木先生は「何事も楽しみながら取り組む人」であったと思う。研究はもとより、スキー、陶芸、写真、短歌など多彩な趣味を持ち、人生そのものを心から楽しまれていたように思う。

私自身は研究者として大成できず不肖の弟子だったが、今こうして皮膚科医をしているのも、黒木先生の研究室で皮膚を用いた研究を始めたことが、確かにつながっていると感じている。

いつもユーモアを忘れず、柔らかい笑顔を絶やさなかった黒木先生。本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。